困ったことになった。貫名遊志はそう思いながら、目の前で尻尾を垂れているゴールデン・レトリバー・・・のような青年を見つめていた。
 何だってそんなに落ち込んでいるんだか。
「・・・おい、秋文」
 青年は答えない。遊志はため息をついた。
「ボーっとしてんなよ。ほら、行くぞ」
 遊志は秋文の腕を掴むと、秋文を引っ張るようにして歩き出した。秋文はよろめきながら、黙って遊志に腕を引かれている。
 遊志はいつもの分かれ道を、秋文の腕を引いたまま左に曲がった。自室へ向かう。遊志の実家は高校からかなり離れた場所にあり、とてもじゃないが自宅通学は出来なかった。それで、遊志は現在アパート暮らしをしている。
「・・・カンナちゃん」
 自宅とは別方向に向かっていることに気付いた秋文が、遠慮がちに声をかけた。
「うるせぇ。黙ってついて来い」
 ぎろ、と遊志が秋文に目を向けると、秋文は困ったように笑った。


「で、何があったんだよ。干からびる寸前みたいな顔しやがって」
 薬缶を火にかけながら、遊志が尋ねる。秋文は力なく笑った。
「カンナちゃん・・・さり気に酷いな」
「悪かったな! てか、カンナちゃんって呼ぶな」
「はいはい」
「・・・あのな」
 何度遊志が訴えても、秋文は彼を『カンナちゃん』と呼ぶ事を止めずにいる。勿論、それは遊志の姓が『貫名』だからなのだが、遊志はそう呼ばれる事を嫌っている。それを知っていて呼び続ける秋文も秋文だが、飽きずに訴え続ける遊志も遊志だった。
「・・・兄貴が家出した」
「・・・・・・は?」
 それで、その落ち込み様か?
 遊志がぽかんとして秋文を見つめる。秋文は居心地悪そうに身じろぎしてから、ぼそぼそと口を開いた。
「うちの兄貴さ、昔から母親と折り合い悪くて。母親は兄貴んことがっつり無視してやがるし。兄貴も兄貴でろくでもないことばっかしてやがったけど・・・とうとう」
「家、出てったのか」
「・・・オレも正直・・・母親嫌いだけどさ、兄貴ほど毛嫌いされてたわけじゃねぇから何とも言えねぇんだけど。でも」
 秋文が俯いた。遊志は黙って秋文の言葉を待つ。
 秋文の家庭の事情は、二、三度軽く聞かされた程度だった。それも父親は秋文がガキの頃に亡くなったとか、兄がひとりいるとか、その程度の情報だけだ。立ち入った話を聞くのは、これが初めてだ。
 薬缶がカタカタと騒ぎ始めた。遊志は火を止めて、コーヒーフィルターの中に湯を注ぎ入れる。独特の香りが部屋の中に広がった。
「でもさ・・・これから、あの家で母親とふたりきりなワケじゃん?」
「ああ」
「正直な話・・・・・・まともに暮らしていける自信、ねぇんだ」
「・・・でも、お前の母親なんだろ」
「・・・」
「なら、そんな遠慮してんなよ」
「そういうワケに行かねぇだろ」
 秋文が苦しげに眉をひそめた。遊志は湯気の立っているコーヒーカップを秋文の前に置く。
「親父が死んで一番苦しんだのは・・・俺らじゃなくて母親なワケじゃん。それにあのひとは・・・脆いから」
「・・・・・・」
「俺がぶつかってったら壊れちまいそうな気が・・・するんだよ」
 秋文が笑う。弱々しい笑みだった。
「でも、それじゃお前はどうすんだよ」
「我慢・・・するけど?」
「だから、何でお前が我慢しなくちゃいけねぇんだよ」
「・・・は?」
 苦々しい顔をする遊志に、秋文は軽く目を瞠った。
「俺が言いたいのはな、どっちかが我慢しなくちゃもたない時点でおかしいっつうことなんだよ。お前が我慢してなきゃもたねぇ関係なんてな、お前がキレたらそこで終わっちまうだろうが」
「か、カンナちゃん・・・」
「俺はお前の味方だからな」
 遊志がじっと秋文を見つめた。秋文は目をそらさずに、遊志を見つめ返している。
「お前、俺に『もっと頼れ』っつったよな。そう言うんならお前ももっと俺を頼れよ」
 ダチだろうが、と遊志が呟いた。
「・・・そ、だな」
 秋文が困ったように笑った。遊志は当然のように頷いてから、コーヒーカップに口をつけた。いつも通りのブラックが、何故だかいつもより苦かった。



 暗い・・・。
 いつもは相当明るい秋文が落ち込んだり何ちゃったりするとこんなことになるわけで。
 ・・・って、明るい秋文をまだ書けてない・・・・・・。
 ホントに普段は底抜けに明るいコなのよ! たまたま落ち込んでる時の話ばっかりなのよ今のところは!
 早いうちに普段の秋文も書けたら・・・と思ってみる。

2006/03/15