君の声、僕の声

 「・・・私は幸せよ、だって、あなたがいるもの」
 「ああ、僕も・・・幸せだ」
それは、はるか昔。あの時、確かに永遠を感じた。

 「・・・・・・!・・・夢か・・・ふふ、私らしくもないな・・・」
朝の柔らかな光はそこにはなく、薄暗く未だ明けない空が自分を見下ろしているのがわかった。
夢から覚め、速い鼓動を鎮めるように胸に手を当てる。
自嘲するように、フロウは笑った。
あたりを見回せば、深い霧がたちこめていた。静かに目を閉じる。
あの日のようだと一人呟き、眉を寄せた。その声は、目覚めぬ仲間達には届かない。
あの頃は、常に光が差していたような気がした。

 「・・・リア、フロウリア!!・・・もう、フロウ!!」
呼びかけられて、僕ははっと顔を上げた。目の前には、さらさらと流れる長い銀髪。
リズ。僕の大切な人。長くて真っ直ぐな銀の髪に、白い肌がとても綺麗だった。
里長の娘だなんて思えないくらい気さくで、僕とリズは知り合ってすぐ仲良くなった。
 「・・・何だ、リズか。びっくりさせないでくれよ」
僕はむっとして軽く睨みながらそう言った。
 「何だ、じゃないでしょう?私、何回も呼んだのに。びっくりするほど大きな声を出させたのは、誰だと思ってるの?」
少し怒ったような口調で、腰に手を当てているリズの目が、笑っているのを確認して僕も笑った。
 「ごめん。・・・ああ、そういえば今日はリズが拾ってきた猫の様子を見に行く約束だったっけ」
 「そうよ。だから、私ずっと待ってたのに。フロウリアってば、座ったまま寝てるんだもの」
そう言って楽しげに笑うリズに、僕は気まずくなって頭をかいてみせた。
 「だから、ごめんってば。なんだかボーっとしちゃったんだよ。ちょっと遅くなったけど、行こう?」
そう言って僕は、リズに手を差し出した。リズは笑って、僕の手をその透き通るような白い手でそっと握った。

 「あ〜・・・ちょっとこれは、まずいね」
 「それは、猫が?それとも、今のあなたの状況が?」
猫に散々踏み倒された僕の情けない格好を見て、リズは楽しそうにふわっと笑った。
 「僕が、かな。だって猫は、こんなに元気になってるしさ」
雨に打たれて、あんなに弱ってたはずなのにね。うなだれて僕がそう言うと、リズはますます声高に笑った。
 「ふふ、あははは!フロウリア、頭ぼさぼさ」
 「・・・もういい加減、そんなに笑わなくてもいいじゃないか」
そう言いながら頭を押さえる僕の姿が、そんなに情けなかったのか。
僕がぶすっとして言った言葉は逆効果だったようで、彼女はますます腹を抱えて笑ってしまった。
それでも、彼女に名前を呼ばれれば、心地良い。
僕の名前を、略称ではなくてきちんと律儀に呼ぶその声が、とても軽やかに響く。
いつまでも、聞いていたかった。
 「ふふ、フロウリアの髪、私好きだな。綺麗だし、ふわふわのさらさらだものね」
リズが僕の髪を手櫛で梳きながら言った。
 「そ、うかな?僕はリズの髪の方が好きだけどな」
どぎまぎしながら僕がそう返すと、リズは嬉しそうに、ちょっと赤い顔で笑った。




 「・・・それにしても、フロウは・・・・・・だって、あの・・・」
 「しっ。・・・誰が聞いているか・・・ほら、・・・」
立ち話をしている二人の女の声が漏れて微かに聞こえてきた内容に、僕の名前が出ているのがわかったけど、
特に追求することもなく通り過ぎた。
早く行かなければ、またリズにぶつぶつ言われるから。
足早に通り過ぎる僕を、ちらりと見る二人の横顔が、僕の視界の端に入った。

 「あ、フロウリア!!遅いよー」
僕が待ち合わせの木陰に着くと、リズはもうそこに座って待っていた。
文句を言っているけど、目が笑っていた。少し遅れたのは事実だったから、素直に僕は謝った。
 「ごめん。暇つぶしに部屋の片付けしてたら、本が崩れてきちゃって」
 「あははっ、何それ」
 「真実とは時に奇妙に聞こえるものなのだよ、リズ君」
ごほん、と咳払いをしてすましてみせた僕の口調に、リズがますます笑顔になった。
 「すみませんでした先生、以後気をつけます」
リズも僕の悪ふざけに乗って、調子を合わせてくれる。
それからぷっと吹き出して、二人で大きな声で笑った。
 「・・・ねえ、フロウリア。私、幸せよ」
急にリズが真剣な顔をして言った。
 「・・・? リズ?」
 「お願い・・・嘘でもいいから、幸せだって言って」
 「幸せ・・・だよ。でも、嘘じゃない。本当だよ」
僕が戸惑いながらもそう言うと、急にリズの瞳から涙がこぼれた。
 「うん・・・うん、ありがとう」
僕はわけもわからずに、ただ隣に座っていることしか出来なかった。
 「本当に大丈夫?何か、あったの?」
心配して聞く僕に、リズは笑うばかりで、何も教えてはくれなかった。
 「大丈夫。ちょっと変な気分になっただけ。春だからかな?」
 「う、うん・・・きっと、そうだよ」
リズに言ったというよりは、そうであって欲しい僕の願いだったのかもしれない。

それは、霧が深い日だった。
「おかしいな・・・いつもは朝方でもこんな霧は出ないのに・・・」
窓の外を見ながらぶつぶつ言っていると、里の知り合いの男が走ってくるのが見えた。
僕は窓を開けて、彼を迎えた。
 「フロウ!!大変だ・・・!!リズが、リズ嬢が!・・・いなくなった!!」
 「な・・・なんだって・・・!?リズが!?」
目を見開いて僕が身を乗り出すと、彼はさらに言った。
 「お前には里のみんなで秘密にしていたんだが・・・リズは、実は里の者じゃないんだ。リズは、元は人間だ。
長が面倒を見ていたのは本当だが・・・。だから、人間が仲間をとられたと思って、今朝リズを連れて行こうとして・・・」
動転しているのか支離滅裂な話をそれだけ聞いて、僕はその窓に足をかけ彼の横をすり抜けて飛び出した。
 「フロウ!!・・・リズは、お前を見て、お前の近くにいたくてここに来たんだ!!それを、忘れるな・・・!」
彼の声を背中に聞きながら、僕は霧のたちこめる中を走った。




 「リズ!!リズ・・・!!どこにいるんだよ!!返事してくれ!」
もう何回、そう叫んだかわからない。森が霧で白くぼやけて、まるで違う場所のようだった。
今頃、里の長が人間達にリズが自分の意思で里に来たこと、攫ったりしたわけではないことを伝えているのだと思う。
だから、出て行かなくたっていいんだと。彼女に一言伝えたかった。
水分を吸った服が重たくなって、僕の動きを鈍くする。
 「リズ・・・っ!!」
その時、微かに声が聞こえた。
 「・・・・・・・・・フロウリア?」
よく目を凝らすと、霧の中に銀の髪が見えた。僕はそっと茂みに歩み寄った。
リズはそこにうずくまって震えていた。
 「僕だよ、リズ。・・・どうしてこんな中に飛び出して行ったんだよ・・・!!こんなに濡れて・・・」
まとわりつく霧からリズを守るように、自分の上着を羽織らせてやると、リズは力なく笑った。
 「だって・・・里から無理矢理連れて行かれるくらいなら、いっそ自分から出て行こうと思ったから。
もう、前から連れ戻しにくるって話は聞いていたの」
 「どっちにしたって、君がいなくなるのは嫌だよ・・・!!大丈夫だよ、なんとかなる・・・いや、何とかするよ!!だから・・・っ」
泣きたい気持ちでいっぱいだったけど、僕は精一杯我慢した。
声は掠れたけど、なんとか涙だけはリズに見せずに済みそうだった。
 「フロウリア・・・?大丈夫?なんだか、泣いているみたいね」
頬に触れてくる手がとても冷たくて、白かったのが痛々しくて、肝心な時にどうして傍にいられなかったのかと自分を呪った。
 「僕は大丈夫。君のほうこそ、とても冷たい・・・。それに、顔色も悪いし・・・今からでも戻ろう。もしかしたら、
 もう事は済んでいるかもしれない」
その手をぎゅっと握って僕は言ったけど、リズは首を横に振った。
 「ねえフロウリア。あなたには黙っていたけれど・・・私、元々、体が弱くてね。あまり長い間動いていられなかったの」
 「うん・・・」
 「ここまで来るのに、かなり走っちゃった。・・・私、疲れたな・・・」
小さくなっていく声を励ますように、僕は強く手を握った。
 「だめだ、気をしっかり持たないと!!・・・僕が里まで連れて行くから、それまで頑張って!」
彼女の細い体を持ち上げて両手で抱えると、僕は走り出した。
リズが僕にぎゅっとしがみついている間は、安心できた。
しばらくすると、リズが急に僕の耳に囁いた。
 「フロウリア・・・お願い、私がいなくなっても・・・」




それからの僕は、たぶん、あからさまに変わったと思う。
いつでも、どんなときにでも、笑っていた。
彼女が言いたかったのは、こんなことじゃないんだろうけど、僕はそうしないと生きていけなかったんだ。
はりついた笑顔が、しばらく取れなくて困ったこともあったっけ。
しかし、長い、長い時を過ごせば、嫌でも記憶は薄れるもの。それは、人も僕らも同じ。
多少落ち着きが出たのは、それからもう何百年と経った時、かな。
リズの事は忘れたわけじゃないけど、以前よりは思い出す回数も格段と減っていた。
彼女が好きだと言ってくれた髪を切らずにいたら、いつの間にかそれが普通になって、腰まで伸びた。
仕事をこなしていくうちに、性格まで変わったみたいで。よく「昔とは比べ物にならない」なんて言われるようになったかな。
それが良かったのか、悪かったのか。
そんなの、『私』にはわからない。

 「・・・フロウ!!お前、またこんな所でサボっていやがったな!」
 「・・・・・・ギースか。全く君も諦めが悪いよね」
 「何が『諦めが悪い』だ!!それはこちらの台詞だぞ。毎回毎回!!場所を変えては昼寝しやがって!!」
最近よく話すようになった仕事仲間、ギースがとても一生懸命で、真面目で。
『私』はそれが楽しくて、眩しくて、ついからかってしまう。
 「まあまあ、そう言うけどねえ、この長い生を過ごすには『適当さ』もなきゃやってられないよ?肩の力を抜いて、さ」
ぽんぽん、と寝転がったまま私が肩を叩くと、ギースは急に真剣な顔になった。
 「・・・・・・お前、それ本気で言ってないだろ」
 「・・・・・・・・・?」
一瞬、言われた意味がわからなくてきょとんとすると、ギースがさらに言った。
 「俺は知ってるぞ。お前、本気で言ってない時ほど、にーっこり笑うんだぜ」
なんて奴だろう。真面目で、若いからこうなのか。
短い付き合いで、『僕』のことなんて全然わかってないと思っていた。でも、何もかも見透かされた感じだ。
確かに、さっきの言葉は『僕』の本心じゃない。ただ、リズがいないことをまだ認めたくなくて、道化になった『私』の言葉だった。
 「・・・ほーお。それはそれは。それが私の癖なのかな。・・・よいしょっと」
寝そべっていた塀の上から飛び降りて、ギースを真っ直ぐに見た。
 「でもね、・・・・・・まだ若くて真っ直ぐな君にはわからないかな。あまりはっきり物を言うのも、場合によっては毒になるものなのだよ」
私みたいに、どこかで曲がってしまった上、その自覚がある者にはね。
 「・・・・・・それでも、いつかは薬になる」
ギースの言葉に聞こえなかったふりをして、私はその場を離れた。
なぜだろう、急に彼のことを思い出したのは。
ああ、たぶん、彼らが『私』の・・・




 「・・・ロウ!!おい、フロウってば!!何座ったまま寝てるんだよ!!」
はっと、栄の声で私は目を開けた。
ぼやけた目の前がくっきりと見えるようになると、そこには心配そうに顔を覗き込む栄、碧、蒼、紅の姿が見えた。
明るい光が木々の間から差してきていた。もう、霧は見えない。眩しい太陽が隙間から覗いていた。
 「・・・・・・?」
頭がぼうっとして、状況がつかめない。そんな私を見て、蒼が肩をすくめた。
 「だめだこりゃ。完全に寝ぼけてるな」
 「フロウー、大丈夫?風邪引いてない?」
心配そうに碧が聞いてくるのに笑って、頭を撫でる。
 「ああ、大丈夫。・・・少し、昔を思い出してね」
そう言って、またにこりと、笑った。
つもりだったのだけれど。
 「・・・大丈夫ですか?ぎこちないですよ、色々と」
紅が組んでいた腕を解いて私の目をじっと見た。
 「わ、私がかい?・・・そんなにひどい顔をしているかねえ、私は」
 「ええ、ひどくぎこちないです。・・・笑えない気分の時は、無理に笑わない方がいいですよ。・・・特に、
 昔を思い出した時なんかは、ね」
そんな悲しげに笑われてもこっちが困るんですよ、と言う紅がくるりと後ろを向いた。
 「・・・・・・そうかい?じゃあ、しばらく頭を冷やしてこようかな」
彼なりに気を遣っている様子を感じ取って、今度こそ、ふっと笑い私は歩き出した。
 「飯までには戻ってこないと、食っちゃうからな!!」
栄の明るい声が聞こえた。
本当は今日、私が作る番だったのを知っていて言うからには、彼も私に気を遣っているらしい。
何も考えていなさそうで色々考えている彼らの気遣いを後ろに感じて、自然に笑みがこぼれた。


フロウリア・・・お願い、私がいなくなっても・・・微笑みを失わないで、ね?


彼女の声が、微かに聞こえたような気がした。『僕』の声は、君に聞こえているだろうか。
 「はは・・・どうやら、薬になったみたいだよ。彼らはね・・・」

それははるか昔。
微笑んで、気高く。
悲しみなどはねのけていくかのようにありたいと。
彼女が好きだと言った髪を風に流して、時の流れるままに・・・『僕』は生きている。

気まぐれに彼らに手を貸したのは、皆どこか少しずつリズに似ていたからかもしれない



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