武道館の塀に寄りかかったまま、腕時計を覗き込む。
 待ち合わせの時間はもう十分も過ぎている。姉の応援に行きたいといったのは向こうだったはずだ、とため息をつく。自分は別にどうでもいいと言った筈なのに、何故かここで待たされる羽目になっている。
 待たされることには慣れていない。暇で仕方なかった。
 先に行ってしまおうかと思い始めた頃、大声で叫びながらこちらへ走ってくる姿が見えた。



〜NightMare Crisis〜
03



「・・・恥ずかしい奴」
 他人のフリをしたかったがそうも行かない。寄りかかっていた塀から身を起こした。腕時計を覗き込む。待ち合わせの時間は二十五分も過ぎていた。
「遅れすぎだ実。もうとっくに始まってる」
 憮然とした顔でそう言うと、嵯峨実は肩で息をしながら答えた。
「・・・わり・・・・・・マジ、ごめん、リュウ」
 実の顔には焦りが残っている。呼吸の乱れも収まる気配がない。随分と長い距離を走ってきたようだった。
「・・・一応、訳アリなら聞いてやるけど」
 流二の声に、実はややあってから口を開いた。
「・・・バス」
「バスがどうした?」
「・・・間違った・・・」
「・・・・・・」
 実は本当なら待ち合わせの時間よりも早く到着する予定だったらしい。逆方向へ向かうバスに乗ったと聞き、流二は思わず頭を抱えた。中学へ行くのと同じ方向のバスに乗ればいいと教えたはずなのに、何だってこいつは間違えたのだろう。
「あれ? サキは?」
 話しているうちに落ち着いた実は、ようやく気づいたらしい。きょろきょろと辺りを見回している。
「早ならもう中だ。梢さんはトップバッターだったからな」
「う・・・マジか。玲莉さんは?」
「結構後の方」
「よっしゃ!」
 さっきまで落ち込んでいたくせに。実はみるみるうちに生気を取り戻した。何故なら実は玲莉に強い憧れを抱いている。弟としてはやめておけと言いたい所だが、言っても聞きそうにないので黙っている。初恋は実らないというジンクスもあることだし。
「リュウ、早く行こうぜ!」
 全く調子のいい奴だ。実に促され、流二は弓道場へ向かった。その途中、実は自分のズボンの裾を踏んづけてコケた。
 本当に世話の焼ける奴だ。実は恥ずかしそうに辺りを見回しながら立ち上がった。
「遅かったね、二人とも」
 落ち着いた声がした。ズボンについた土を払いながら、実が顔を上げる。
「あれ、サキじゃん」
「あれ、じゃないだろ。・・・悪いな、早。こいつバス間違えやがったらしい」
「・・・実らしいね」
「・・・で、どうしたんだ。まだ終わっていないはずだろう?」
「・・・・・・」
 弓道場までもうすぐという所に、神川早はいた。流二が尋ねると、早は微かに苦い表情を浮かべる。
 早はいつもこうだ。何か良くないことが起こると、表情が乏しくなるのだ。流二は早が口が開くまで待とうと、黙っていた。しかし実はというと。
「なあサキ、梢さんどうだった? 当てた? 外した?」
「馬鹿、黙ってろ」
「え、何」
「中止に、なったよ」
 実の言葉にかぶせるように、早が言った。
 実もようやく早の様子がおかしいことに気づいたらしい。実にしては珍しく、言葉の続きを待っている。
 早が嘆息した。いやな予感がする。
「姉さんが、いなくなった」
「いなくなった?」
 早がこくりと頷いた。実が目を丸くする。
「いなくなったって・・・あの人試合すっぽかすような人じゃないだろ?」
「当たり前だ。今朝も姉貴を迎えに来てた」
「だったら」
「早が言いたいのはそういうことじゃない筈だ。そうだろ早」
「・・・うん。姉さんは」
 早は、人形のような顔でぽつりと言った。


「俺の目の前で、消えた」


「目の前で、って・・・」
 当惑したように実が言った。早は頷く。
「試合中に・・・・・・出てきて、構えた後に、突然・・・」
「マジックみたいにか!?」
「うん・・・」
 そんなこと、ある筈がない。起こり得ない。人間が目の前で消えるなどあり得ない。
「そんなこと、あってたまるかよ」
「流二・・・」
「おいリュウ・・・落ち着けって。だって現に中止に・・・なってんだろ。オレだって信じらんねぇけどさ、サキが言ってんだから本当なんだろ。なぁサキ」
「だけどな実・・・!」
「流二!」
 流二が更に言い募ろうとしたとき、よく聞き慣れた声が飛び込んできた。実が慌てて前髪をいじり始める。
「姉貴・・・」
「来てたんだな。・・・梢のこと、なんだけど」
「・・・早から聞いた。聞いたけど。俺には信じられない」
「だろうな。でも・・・私も、見たんだ」
 玲莉が俯きながらそう言った。何か言わなければ、と思うのに、言葉が出てこない。
 下を向くと玲莉の足元が見えた。足袋のままだ。玲莉は弓道場からそのまま飛び出してきたようだった。何とも言えない気分になる。
 口を開いたのは実だった。
「探してるんですよね、梢さんを」
「・・・ああ。でも、どこにも・・・」
「・・・っ」
 早が拳を固く握った。小刻みに震えている。なのにやはり表情は浮かんでいなくて、流二はいたたまれない気分になった。
「とりあえず警察にも通報してもらった。だが・・・状況が状況だから」
 玲莉は苦々しくそう告げた。数ヶ月前にいなくなった甲野紗夜夏のこともある。姉は何も悪くないのに、きっと自分を責めている。この人は、そういう人だ。
「でも、諦めたりなんかしないですよね。玲莉さんは」
 実の言葉に、はっとしたように玲莉が顔を上げた。流二も思わず実の顔を凝視する。実は懸命に言葉を紡いでいた。
「前に言ってた後輩とかいう人のコトだって、玲莉さんずっと心配してるんでしょう? 手がかりだって見つけてやるって。梢さんのコトだって違わない筈でしょう? だから、その、ええと」
 途中で何を言っているのかわからなくなったのだろう。実は必死な顔で言葉を探している。
「実、ありがとう」
 実の言葉は途中で切れてしまったものの、言いたいことは何となく分かったようだった。玲莉は恥ずかしそうな顔をして言った。実の方はといえば、驚いたように玲莉を見つめている。
「私も混乱していたみたいだ。・・・そうだな、諦めるつもりなんてない」
「・・・姉貴」
 それでもきっと、姉は自分を責めることをやめないだろう。諦めないということは、その裏返しだ。どこか負い目を感じていないならば、自力で探そうだなんて思う筈がないのだ。少なくとも、流二はそう思う。
「・・・俺も」
 早がぼそりと呟いた。瞳の奥に、青白い炎が揺れている。流二にはそう見える。
「姉さんのこと、諦めない」
「早」
 早は困ったように笑った。そして、姉さんには内緒にしてねと付け加えた。

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2008/07/14