〜NightMare Crisis〜
04



「あっちィ」
 どさ、と通学用のバッグが玄関に投げ出された。奈輝がリビングから廊下に出てみると、弟が靴を脱ぎ散らかしたところだった。
「兄貴ィー、アイス食いたーい」
 開口一番、弟はアイスを要求してきた。せめて『ただいま』くらい言えないのだろうか。奈輝はため息をついた。
「・・・・・・遅かったな」
「んー。俺今日は道場の掃除係だったし」
 時刻は午後八時を回っている。いつもよりだいぶ遅い時間だった。
「・・・御伽」
「何、兄貴?」
「零悟は一緒じゃないのか」
 そう尋ねると、御伽はきょとんとした顔になった。笠原零悟は弟の友人で、今年の春から家に下宿している。弟と同じ部活に入っており、いつもは一緒に帰ってきている。
「え、嘘。あいつ俺より先に帰った筈なんだけど」
 流石に待たせんの悪いと思ったし、と御伽は首を傾げながら言った。奈輝が難しい顔をしたのを見て、御伽は携帯電話を取り出した。
「どこほっつき歩いてんだろ。メールしてみるわ」
 御伽がメールを打ち始める。電話をかけた方が早いのではないかと思うのだが、奈輝は黙っておいた。『おっさん臭い』とツッコまれるのがわかっているからだ。
 パタン、と言う音で奈輝は我に返った。御伽はメールを打ち終えたらしく、携帯電話をポケットに突っ込んだ。
「とりあえず着信待ちなー。兄貴、アイス食いたい」
「・・・冷凍庫」
「やったーサンキュー」
 御伽はどたどたとキッチンへ走っていった。誰に似たのやら、やかましい弟である。
 零悟の帰りが遅いのは、珍しいことだった。いつもなら真っ直ぐに帰ってくる。寄り道でもしているのだろうか。いずれにせよ、あまり遅くなるのは感心しない。
 電話が鳴った。受話器を取ろうと小走りでキッチンへ向かったが、ドアを開ける前に電話は鳴り止んだ。
「ハイ、東です」
 御伽がよそ行きの声で言うのが聞こえた。そのまま受け答えしているので、セールスか何かの電話だろう。奈輝は出来るだけ音を立てないようにキッチンのドアを開けた。
 御伽は電話の前で戸惑ったように眉をひそめている。奈輝が入ってきたことに気づくと、口の動きだけで『代わって』と言ってきた。奈輝が頷くと、御伽はほっとしたように表情を和らげる。御伽から受話器を受け取って耳に押し当てると、聞き慣れた声がやかましく騒いでいるのが聞こえた。
「・・・おい」
『だぁから、聞いてんのかよ奈輝ィ!』
「・・・・・・お前な」
 ため息が出た。どうしてこいつはこうも迂闊なのだろう。御伽が戸惑う訳である。
「俺と弟の区別も出来ないのか、圭太」
『・・・はい?』
 受話器の向こうで圭太が絶句しているのが分かる。何をそんなに驚くことがあるのか。
「確認くらいしろよ」
『いや・・・お前、弟いたんだ』
「・・・・・・」
 迂闊なのは自分も同じだったらしい。小学校からの付き合いであるというのに、そういえば話した覚えが全くなかった。どうやら圭太はよそ行きの声になっている御伽の声を、奈輝のものと勘違いしたらしい。
『おかしいと思ったんだよなぁ。お前そんな声高くねぇもん』
「中学生と比べるなよ・・・」
 奈輝が苦笑した。受話器の向こうからは、ばつの悪そうな笑い声がする。
「それで、何の用だ。俺の携帯にかければよかっただろう」
『あ、今家電からかけてんの。俺今月ピンチなんだわー。パケ代が大変なことに』
「お前の携帯事情なんぞ知るか」
『・・・ソウデスネー』
 圭太は何故か片言でそう答えた。
「ったくもー、テンションだだ下がりだってのー。奈輝の冷血動物ー』
「・・・切っていいか」
『ひっでぇ! 用もないのに電話なんかかけるかー!』
「だったら早く用件を言え・・・」
 いつまで経っても話が進まない。奈輝は再びため息をついた。先を促してやると、ようやく圭太は落ち着いたのか本題に入った。
『・・・電話がさ、かかってきたんだ』
「・・・? 誰から」
『間から』
 目の前がぐにゃりと歪んだような気がした。間覚志から電話、だと?
「何と言っていた!」
『お、落ち着けよ』
 この男にだけは言われたくない。そう言いそうになって慌てて飲み込んだ。臍を曲げられたらまた話が脱線する。
『声小さくて所々しか聞こえなかったんだけどさ。何か、誰か連れてく・・・とか何とか』
「・・・連れて行く、だと?」
『ああ。確かにそう言った。ちゃんと聞こえたし間違いねぇよ』
 ちらりと御伽の様子を窺う。御伽はアイスを食べ終わったようで、手持ち無沙汰な様子で携帯をいじっていた。零悟から返信が来たのかどうかはわからない。
『それとあいつ、何か苦しそうな感じだったぜ。よくわかんねぇけど。いきなり切られちまった』
「かけ直してみたか」
『繋がんなかった。使われてません、的な』
「・・・」
『すぐリダイヤルしたんだぜ? 何なんだよ一体』
 連れて、行く。奈輝は苦虫を噛み潰したような顔になった。まさか。
「・・・連れて行くといったんだな、あいつは?」
『あ、ああ。言ったけど』
「うちの下宿人がまだ帰っていない」
『? まさか・・・。寄り道とかじゃなくて?』
「中学生がこんな時間までか? もう八時半だぞ」
 圭太は押し黙ってしまった。奈輝はふ、と息を吐き出した。熱くなりすぎている。
「・・・すまん。俺の杞憂ならいいんだ」
『・・・奈輝』
 気遣うような声で圭太が言った。奈輝は気分を切り替えるように、話題を零悟のことから切り替えた。冷静になれ、と自分に言い聞かせる。自分が熱くなったところで、わかることなど何もないのだ。
「しかし・・・何だって間はお前に電話してきたんだろうな」
『・・・あいつ、お前にかけるつもりだったんじゃねぇかな。や、何となくそう思っただけだけどよ』
「・・・・・・」
 覚志がどういうつもりで電話をかけてきたのかなど、わかる筈もない。
 二言三言言葉を交わしてから、電話を切った。振り向くと、御伽が不安そうにこちらを見つめていた。
「・・・御伽」
「・・・まだ来てない。あいつ何やってんだろ」
 圭太との電話で、自分が不穏な空気を発していた所為だろう。御伽は泣き出す寸前のような顔をしている。奈輝は御伽を落ち着けるようにぽん、と肩を叩いた。
「・・・大丈夫だ」
 奈輝は自分にも言い聞かせるように言った。
「夕飯まだだろう。用意する」
「・・・いい。いらない」
 調理台へ向かおうとした奈輝を、御伽の言葉が引き止めた。
「零悟が帰ってきたら、一緒に食う」
 御伽はぼそりとそう言った。奈輝は知らず、笑みをこぼしていた。きっとこの弟は、自分なんかよりも余程いい性格をしている。
「そうか」
「な、何だよ。気持ち悪ぃな」
「別に」
 奈輝はそう言って笑った。御伽は腑に落ちない顔をしていた。


 リビングに移動して、御伽と一緒に零悟の帰りを待った。その途中、何度も零悟の携帯に電話やメールを送った。
 しかし零悟から連絡が返ってくることはなかった。玄関のドアもまた、開くことはなかった。

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2008/07/16